直接規制の難しさ

環境影響には、通常、排除性がなく、市場が存在しないのが普通です。一部の人の努力によって地球のCO2濃度が改善されたとしても、全然努力していない人にも、その便益は制限無く享受されます。一部の人のために、地球のCO2濃度が悪化したとしても、その悪影響は、つつましく生活していた人々にも同様に及びます。環境に貢献した企業に対価を支払った人にも支払わなかった人にも、地球環境の影響は遍く及びます。ですから、市場競争にさらされた企業の目標に、環境改善を、そのまま組み込むことは難しいのです。

command and control
政府による直接規制は、単純明快だが、規制水準の設定と各主体への配分がむずかしい。

市場が失敗するのなら、政府が出張らねばなりません。もっとも、単純なのは規制です。CO2は年間これだけしか排出してはいけません、といった排出量規制をするのです。しかし、これにはいくつか解決しなければならない問題があります。

まず、規制水準をどの程度にするかという問題です。CO2排出量にしても、全体で6%減がいいのか、20%減がよいのかは、議論の余地のあるところです。地球温暖化の問題からいえば、できるだけ減らした方がよいのですが、そうなると、経済活動を抑制せざるをえなくなり、景気が後退し、失業が増えてしまうかもしれません。かといって、経済ばかりを優先すると、それこそ地球環境が大きく損なわれてしまいます。これに対しては、 気候変動に関する政府間パネル(IPCC)なんかが、科学的な環境影響の評価(アセスメント)を行い、どうすべきかについての情報を提供しています。そのうえで、できるだけ早く対策を打ったほうが、地球温暖化に伴う被害も、それを食い止めるコストも低いだろうと警告しております。しかも、必ず不確実な部分が残るので、ある程度の幅をもった評価しかできません。なかなか「この水準がよい」と決めるられないのです。IPCCの報告においても、いくつかのシナリオの下で、異なった結果が出されています。

規制水準の設定においては、こうした科学的な評価(assessment)だけでなく、社会にとっての環境の価値も問題としなければなりません。環境は唯一無二絶対の存在だから、一切手をつけてはいけない、という考え方もあるでしょうが、少なくとも現代人が生きていく上で、それを実現できる術を知りません。ですから、社会にとって価値のある環境水準の見極めが肝心となります。言い方は悪いかもしれませんが、裏を返せば、望ましい環境破壊の水準を、社会的に決めるということになります。これにも難しい問題があって、ひとつは、環境の価値をどう評価(valuation)するか、価値付けするか、という問題です。環境は、特定の人や用途だけのために存在しているわけではありませんので、「環境はいくらか」などと、その絶対価値を評価することなどはできません。そこで、レクレーションにとっての環境価値など、環境の用途を特定したり、経済活動を進めることによる環境被害や、逆に、その保全のためにならあきらめてもよいと評価される経済活動の価値で、環境が評価されることが多いです。環境の経済評価といっても、じつは限られた価値のみが評価されているのです。

さらに、こうした環境からの便益を限ったとしても、正確に人々が環境から得られる経済的便益を測ることができるのか、という問題もあります。環境破壊に伴う被害には、直接評価できる金銭的被害もありますが、景観やきれいな空気、さらには存在そのもののように、評価を聞かれている本人自身も自覚が難しい価値も含まれているからです。

加えて、経済活動が関係するので、当然、利害が対立する場合も出てきます。経済活動で利益を得る人と、それによって環境被害を受ける人が異なる場合、どう折り合いをつけるか、という問題もあります。住環境に開発の手が入った場合、開発者が近隣住民に金銭的補償を行い、合意を得る場合もあるでしょうが、環境リスクをめぐって、厳しい対立に至る場合もあります。森林を伐採する場合に、近隣住民の中でも、景観を残したいという人、キノコが取れるところを残せという人、生物が好きで、希少種が生息するところを残せという人、等々、意見はさまざま出てくるでしょう。こうした多様な利害を民主的に効率的に解決する方法というのはありません。単純に「社会的に望ましい水準に環境規制を行う」と言っても、少なくともこれだけの問題を解決しなければならないのです。

これらの問題をクリアし、たとえ社会的規制水準が見つかったとしても、今度は、その規制水準を、規制対象者間でどう配分するかという問題もあります。CO2排出量規制の場合にも、みんな等しく一律に10%削減と言われても、もともと気を使っていた企業も、バンバン排出していた企業も同じ削減率を迫るわけにはいかないでしょうし、業種によっては大きく削減できるところもあるかもしれませんが、なかなかそうはいかない業種もあるでしょう。世界的には、先進国と新興国、途上国間の対立もあります。

一律の規制は、一見平等のようにも見えますが、上述のような不平等性を含んでいますし、さらに言うと、社会的に効率的でもありません。CO2削減が技術的に難しい産業では、過度なCO2削減コストを強要することになり、逆に、削減が容易な産業は、規制水準をクリアした段階で、それ以上の努力はしないでしょう。前者の産業と同程度の削減費用をかけたら大幅なCO2削減が可能だったとしても、です。

制度設計の難しさ

economical measurs
政府が人為的に環境影響の市場を創出するには、環境影響のアセスメントとその社会的価値の測定を行い、経済的インセンティブを各主体に与える必要がある。

 

そこで、CO2排出に税金をかけてやればよいのでは、という発想が出てきます。CO21トン当たりいくらという税金をかけてやれば、CO2排出削減が困難な産業も容易な産業も、同じ削減努力の水準でCO2削減を行うようになります。具体的には、これ以上コストを削減するぐらいなら、税金を支払った方がましだ、と企業が思う水準となります。この削減量を全企業あわせた量が、社会的に最適な量になるように、課税水準を決めてやればよいわけです。

最近話題の排出権取引ですが、これは、排出してよいCO2の量をあらかじめ配分したところで、それが少なすぎ、もっとCO2を出さないとCO2削減費用がバカ高くなってしまう企業は、排出権を買おうとするし、簡単にCO2削減ができて、排出してよいCO2が多い企業の場合は、それを売ろうとするから、いい具合に排出権の市場ができて、価格調整が図られるというカラクリです。排出権の初期配分量を社会的な最適量にしておけば、それは自動的に達成されるはずです。最初の企業間の配分をかなりいい加減に行ったとしても、企業間で不満はでるでしょうが、CO2削減に関しては、効率的に実現できることになります。CO2排出という市場がないところに、排出権の市場を人為的につくったということです。

このあたりは環境経済学の教科書を見れば、いろいろな方法がわかりやすく解説されています。直接の規制や経済的手段の長所・短所を組み合わせて、より効率的な方法も提案されています。しかしながら、これらにも解決しなければならない問題があります。直接規制だろうと、課税だろうと、はたまた排出権取引だろうと、どうしても必要なのは、CO2排出のモニタリングです。これができない限りは、そのいずれもできません。企業活動に付き添って、CO2排出を監視しておくことはできないし、様々なところからいろいろな形で排出されるCO2を、ひとつの計器で測ることも難しいでしょう。したがって、それに代わる方法で、CO2排出量を測るしかありません。したがって、企業の自己申告というのも致し方ないことになります。環境省から、そのためのガイドライン(外部リンク)なんかも出されています。できるだけ正確に、恣意性が入らないモニタリング・システム構築が目標ですが、基本的に性善説に立った取り組みが多いですね、環境の場合。

燃料使用量など、CO2排出量とほぼリンクしている、モニター可能なもので、押さえることも手でしょう。個人宅などからのCO2排出まで考えると、とてもモニタリングなどできませんが、これだとモニターしなくても課税で燃料使用量をある程度コントロールすることができます。CO2削減が世の中でキャンペーンとして行われていますが、ガソリンの値段が上がるのが一番効果的なはずです。ガソリンの値段が上がれば、みなさん必死で、ガソリンを使わないですむような暮らし方を考えます。企業による代替エネルギーの開発・利用も進むことでしょう。経済活動への打撃が計り知れないので、そんなことはできないのですが、世界的に本気でCO2削減を行おうとしたら、原油の値段を2倍にすれば、少なくともCO2排出は、だいぶ減らせると思いますけど。

ともかく、公共財的な性格の強い環境影響を取り扱う市場は存在しないので、環境問題を社会的に解決しようとしたら、政府が規制するか、課税するか、あるいは、人為的な市場を拵えるか、などの措置をとる必要があります。もっとも、この役割は政府しかできないというわけではなく、業界で自主的な規制を設けることも可能な場合がありますし、国際的には、トップダウンでは無理ですので、国間の交渉を通じてどのような措置を講ずるのかが決められます。しかしながら、そのいずれも、上述のような解決すべき問題が残されます。さらに、その管理において、多大な労力と費用がかかります。管理すべき環境影響が特定化され、その管理コストに見合うものにしか、こうした政府的介入はできないでしょう。環境問題には、そうした管理対象には含まれないものが数多くあります。特定地域の特定生物の保全であるとか、景観保全であるとか・・・。つまり、環境問題には政府的介入が必要だが、その介入の効果と範囲には限界があるということです。これは、市場の失敗になぞらえて、政府の失敗と呼ばれます。

市場による解決(再)>>