環境マーケティングは必要か?

持続可能な社会を求めて

環境マーケティングは、環境問題をマーケティングの方法で解決したり、企業活動を環境と調和させることが具体的な目標ですが、その先にはさらに、持続可能な社会を、政府ではなく、市場の力で実現していくという大きな目標があります。そんなことができるのか、政府と市場との関係はどうなのか、ここでいう「市場」とは何なのか、といったことは、ひとまずおいといて、まずは持続可能性について話しておかなければなりません。

持続可能性な社会とは、文字通り終わりがなく継続できる社会のことです。環境と開発のどこに折り合いをつければよいかということに関して、1987年の「ブルントラント報告」で持続可能な開発(Sustainable Development: SD)が議論され、広く認知されるようになりました(環境省の解説参照)

何をもって持続可能とするかについては、 さまざまな議論があります。その大きな違いは、自然や資源の代替可能性を認めるかどうかです。代替可能性とは、何かが無くなってもそれに代わるものがあればそれで埋め合わせられるかどうかです。知り合いの生態学の先生などは「無くなっていい自然など何一つない」とおっしゃいます。かっこいいですね。私もそんなふうに言い切ってみたいのですが、残念ながら、私が対象としている経済においては人間が中心で、人間の生活を豊かにすることが求められます。かけがえのないものの大切さは認めながらも、どうしてもなにかを犠牲にしないとこうした発展は望めません。

ブルントラント報告は、持続可能な発展を「将来世代のニーズを満たす能力を損なうことなく、現世代のニーズを満たすような発展」と定義しました。何かが無くなっても、別のもので人間のニーズを満たすことができるなら、それでよいとしましょう、という考え方です。たとえば、石油が希少になっても燃費をよくすれば今みたいな量の石油がなくてもよいことになります。そうなると、次世代に残すべき石油は、現世代より少なくてすみます。それでもいつか石油は無くなると言われるでしょうが、石油に依存しない方法を開発できれば、石油が無くても次世代の生活の質は保たれます。

環境経済学では、もうちょっと厳密に議論されていて、ハーマンデイリーが持続可能な経済のための4つの原則を示しています。すなわち、(1)再生可能な資源は再生できる範囲に、(2)再生できない枯渇資源の利用は代替物が開発される範囲に利用する。(3)汚染物質の排出は地球の浄化能力の範囲に留め、そして(4)経済の成長はエコシステムの許容力の範囲内で最適化すべきと言っています。

また、ダスグプタは、Well-beingの持続的向上を目標に掲げました。このWell-beingというのは、「福祉」と訳される場合もありますが、「幸福」と訳される場合もあります。それは、物質的豊かさだけでなく、生活の質も重要な一部となる包括的なもので、これを測るために「包括的富」の概念を示しました。この概念においては、人工資本だけでなく、自然も資本ととらえて、これに加えられています。たとえば、人は、生態系から様々な恩恵を受けて生活の質を確保しています。この恩恵を生態系サービスととらえ、その源泉となるものが生態系そのものと考えるわけです。この場合、生態系サービスが、経済学の言うフロー、生態系そのものがストックにあたります。ダスグプタは、さらに人的資本も加え、これらを減じないような発展の経路を示しました。

こうした資本間の代替可能性を認めたとしても、現世代が利用できる自然資本は限られていることに違いはありません。それでは、現世代でもあまり使われていない自然資本を使わせてもらうというのはどうでしょうか? つまり途上国の開発輸入です。もちろん、それはそれで問題です。再生可能資源ならともかく、生物多様性の宝庫である熱帯雨林を伐採した農業や採掘は、途上国が次世代に残すべき自然資本を収奪していることになります。たとえそれが途上国の経済を潤すものであったとしても、そこに持続可能性がない限り、それは一過性のものとなります。リン鉱石の島 ナウル共和国の繁栄と衰退はあまりに有名です。ですから、我々の経済を持続的に発展させるためには、世代間にも地域間にも気を配りながら包括的な資本を蓄積・管理していかなければならないのです。

現在の経済的繁栄は、本来なら途上国や将来世代が利用すべき資源を収奪した形で成り立っている。適正な資源利用をしても、こうした製品と同じ市場で競争しなければならない。

現実はどうでしょうか。日本を含む先進国は世界中から資源を輸入し続けています。そうして先進国は高い生産性を実現し、豊かな消費を謳歌しています。環境や社会的公正も大事かもしれないが、安価に安定した食料や商品を供給するためには、現在のやり方を放棄するわけにはいかない、そうしないと、多くの人たちが貧困や飢えに苦しむことになる。そうならないように、ある程度の破壊や無理も必要悪だ。そう言う人もいるかもしれません。しかし、そうした経済的繁栄が、本来ならその人たちが使うべきだった途上国や将来世代の自然資本を、彼らがもの言わぬことをよいことに、収奪して実現されているものだとしたらどう思いますか?

もちろん、こうした収奪型の経済はよくないということで、環境や社会的公正に配慮した生産を行う人がいます。しかし問題は、環境や社会的公正に配慮した生産者も、収奪型の生産者と同じ市場で競争しなければならないということです。見た目も品質もほとんど同じ商品が、片方は高い値段で、もう片方は安い値段で売られていたらどうでしょうか?勝負は目に見えています。環境にも社会的公正にも配慮して生産されたものに対する消費者の支持が必要なのです。あるいは、そもそも不必要なものは買わない、資源をそれほど使わなくてよい生活への転換が必要なのです。

2015年の国連総会では、持続可能な開発目標(SDGs)として17もの目標が出されて、各国のコミットメントが求められました。持続可能な社会に転換するために、こうした国際間の取り組みは絶対必要です。国内でも、直接規制や制度的枠組みづくりが求められます。こうした政策的・経済的アプローチで、企業や消費者を規制したりインセンティブを与えることも大事ですが、それだけでなく、最終的には、消費者の規範や倫理、ライフスタイル、価値観の転換が求められます。環境マーケティングは、その可能性に期待します。

>>企業活動の社会的コントロール